築地さんぽ

活字発祥の地 <<築地さんぽ7月号>>

築地は、活字に関わる仕事をする私たちにとっては格別の意味を持つ街です。

写真の明朝かな書体は「築地体」と呼ばれます。その名の通り、築地で生まれた日本初のかな活字の書体です。日本の明朝体のかな活字は、この「築地体」が基になって、その書体を多様に発展させていきました。築地は、日本の活字発祥の地でもあるのです。

築地体の書体見本の一種

築地体の書体見本の一種

「築地体」の誕生には2人の人物が関わっています。日本の活字活版の父ともいえる本木昌造と、その弟子・平野富二です。江戸幕府の長崎オランダ通詞の家に生まれた本木は西洋文明に強い関心を持ち、活版印刷にも早くから興味を抱いていました。そして維新後、中国から漢字活字を持ち込んで、長崎に活版所を創業しました。

東京活版の跡地のコンワビルの敷地内には、活字発祥の記念碑がひっそりと建つ

東京活版の跡地のコンワビルの敷地内には、活字発祥の記念碑がひっそりと建つ

しかし、かなの活字がまだ存在せず、事業経営も苦しいものでした。そこで、本木は平野の経営の才を見込み、市場の大きな東京に進出させました。1873年(明治6年)のことで、東京築地活版製造所の興りです。平野は、ここで「築地体」の活字のほか活版印刷機も製造・販売し、印刷業も展開しました。事業は成功し、「築地活版」の社名は業界の大看板になりました。そのため、築地周辺には印刷・出版など関連業種の会社が多く集まりました。築地周辺に今でも印刷屋さんが多いのはこの名残です。「築地活版」の所在地は、現在の築地1丁目、京橋築地小学校近くのコンワビルの辺りでしたが、今では小さな記念碑がそのことを知らせるのみです。

 


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波除稲荷神社 <<築地さんぽ6月号>>

築地市場に隣接した狭い敷地に、波除稲荷神社はひっそりと建っています。

波除稲荷神社の本殿

波除稲荷神社の本殿

創建は1659年(万治2年)。4代将軍徳川家綱公の江戸湾埋め立て工事が激しい波風によって難航していた際、この近辺一帯の海面に光って現れた稲荷大神の御神体を祀ったところ、波風がピタリとやみ工事も無事に終わったと伝えられます。以来「波除さま」という尊称とともに災難除・厄除・商売繁盛の神様として地元の人々に親しまれています。

波除稲荷で有名な例大祭が、毎年6月に行われる「つきじ獅子祭」です。創建当時から350年以上も続く伝統行事で、2012年には御鎮座三百五十年奉祝大祭が行われました。巨大な獅子頭を神輿のように担いで街を練り歩く光景はおなじみです。雄の天井大獅子、雌のお歯黒獅子は社殿に納められており拝観できます。

このほか、魚介類の取り扱いを生業とする人々が多い場所柄、魚介類の霊を慰めるため、すし塚、海老塚、鮟鱇塚、活魚塚などが境内に建てられています。

雌の獅子頭「お歯黒獅子」

雌の獅子頭「お歯黒獅子」

雄の獅子頭「天井大獅子」

雄の獅子頭「天井大獅子」

 

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龍馬ゆかりの地 <<築地さんぽ5月号>>

今回は、坂本龍馬ゆかりの地を案内します。

まずは土佐藩邸中屋敷です。龍馬は10代で剣術修行のため江戸に出て、寄宿先を築地の中屋敷にしました。その跡地が、現在の築地警察署から中央区役所一帯です。

土佐藩邸中屋敷があった辺り。手前の建物は築地警察署

土佐藩邸中屋敷があった辺り。手前の建物は築地警察署

龍馬はここから、京橋1丁目付近にあった桶町の千葉定吉道場に通い稽古に励みました。黒船が来航したのは龍馬が江戸に到着して間もなくのことで、そのときは龍馬も藩命により品川の下屋敷まで出張しました。

次に、龍馬の師・勝海舟が教授を務めていた幕府の軍艦操練所です。

同所は、現在の築地市場の地にありました。長崎海軍伝習所に続く幕府の海軍教育機関として、1857年(安政4年)に設置されました。

軍艦操練所跡の案内板。築地市場の前にある

軍艦操練所跡の案内板。築地市場の前にある


その後、長崎海軍伝習所の閉鎖とともに幕府海軍教育の中核施設になりました。1864年(元治元年)に築地の施設の大半が火災で消失したため、勝海舟はこれを期に、龍馬が塾頭を務める神戸海軍操練所を幕府の中核施設にしようと画策しましたが、小栗忠順らが築地の操練所を速やかに再建したため、その計画は頓挫しました。なお、龍馬と同郷のジョン(中浜)万次郎もここで教授を務めたことがあります。

 

 


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築地市場 <<築地さんぽ4月号>>

「市場」や「魚河岸」などの呼び名で親しまれている築地市場は、長い間、町のシンボルでした。水産部と青果部が開設されており、特に水産物の取扱高は世界でも最大級の規模。1日当たり約1952トン、約15億8400万円の水産物が取引され(2010年実績)、今では海外からも観光客が訪れる名所です。

築地市場の正門

築地市場の正門

江戸時代から日本橋にあった魚河岸が、築地に移転してきたのは1923年(大正12年)のこと。同年9月の関東大震災で日本橋の河岸が壊滅的被害を受けたためです。

同時に、京橋にあった大根河岸(青果市場)も移転してきました。当時、東京の人口は急増していましたが、魚河岸は独自の商慣行を持つ民間市場だったため公正な取引のルールもなく、衛生面の管理もおろそかになりがちでした。このため、東京市では築地の魚河岸を、公設の中央卸売市場として生まれ変わらせる計画でした。

場外から市場方面を望む

場外から市場方面を望む

しかし、結局、この計画が実現したのは12年も経った1935年(昭和10年)でした。公設市場では従来の商慣行が廃止されて新しいルールで運営されるため、古くからの既得権を失う問屋・仲買業者が猛反発し、東京市に補償を求めて大騒動になったからです。この問題の解決のため、公設築地市場の開場は12年間も店ざらしになったのです。

難産の末にやっと誕生した築地市場ですが、80年近くの時を経て、豊洲への移転問題でも大揉めに揉めたのはご存じの通りです。2016年11月に移転することが決まり、築地の「住人」としては市場がなくなるのは寂しい限りですが、現在の施設は築地市場開場当時から使っているという年代物ですから、仕方がないのかもしれません。

 

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築地小劇場 <<築地さんぽ3月号>>

みずほ銀行築地支店のあるNTTデータ築地ビル。その一角にはかつて、築地小劇場が建っていました。

:往時の築地小劇場の姿

往時の築地小劇場の姿

同劇場は、1924年(大正13年)に土方与志と小山内薫によって開設され、芸術志向の強い新劇運動の拠点となりました。建坪約100坪、高い天井に可動式舞台、500席ある客席に加え、世界初の電気照明室という最先端の設備を誇りました。伯爵家出身の土方の資力あればこそです。

NTTデータ築地ビルの記念碑。題字は里見弴

NTTデータ築地ビルの記念碑。題字は里見弴

また、付属劇団も持ち、俳優養成にも力を入れました。劇場で育って活躍した俳優には千田是也や滝沢修などがいます。演目はチェーホフやゴーリキなど海外作品の翻訳演劇が中心で、後には坪内逍遥や武者小路実篤らの創作劇なども上演されました。同時に、プロレタリア演劇の活動拠点ともなり、築地警察署で拷問死した作家・小林多喜二の労農葬も、この劇場で行われています。

このように、日本の近代演劇史に大きな足跡を残した築地小劇場でしたが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲ですべて焼失してしまいました。今はその跡地にレリーフを施した記念碑が残るのみです。

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