歌舞伎の殿堂 <<築地さんぽ10月号>>

歌舞伎の殿堂といえば、東銀座の歌舞伎座ですが、関東大震災前までは新富町にも歌舞伎の中心的な劇場がありました。それが新富座です。

江戸時代、庶民の娯楽だった歌舞伎は、江戸四座といわれる芝居小屋でのみ興行が許されていました。中村座・市村座・森田(守田)座・山村座の四座で、後に山村座が取り潰されたため、最終的に江戸三座となりました。

1881年(明治14年)に3代目歌川広重が描いた「東京名所之内・第一の劇場新富座」

1881年(明治14年)に3代目歌川広重が描いた「東京名所之内・第一の劇場新富座」

このうち森田座は、維新後の1872年(明治5年)に新富町の地に移り、3年後には新富座と改称しました。その後すぐに火災で焼失したのを機に、1878年(明治11年)、新富座は西洋式の大劇場に生まれ変わります。

ガス灯による照明で夜間上演が可能という画期的な近代劇場は日本初の試み、そして日本最大規模でした。新富座専属の役者には、9代目団十郎・5代目菊五郎・初代左団次の3名優がおり「団菊左時代」といわれる歌舞伎の黄金時代を現出しました。

かつて新富座のあった場所には、今は京橋税務署が建つ

かつて新富座のあった場所には、今は京橋税務署が建つ

その後、近代日本にふさわしい歌舞伎をつくろうという運動の一環として、1889年(明治22年)に歌舞伎座が開業します。新富座は、これに対抗するため市村座や中村座などと謀って、歌舞伎座排除に動きます。「団菊左」をはじめ人気役者の出演予定を5年先まで埋め、歌舞伎座には出られないようにしたのです。背に腹は代えられぬ歌舞伎座は仕方なしに莫大な見舞金を新富座などに支払って、やっと歌舞伎を上演できるようになりました。しかし、「団菊左」の引退とともに新富座は衰えていき、明治の末年ごろには歌舞伎座、市村座とともに関西の松竹に買収されました。さらに、関東大震災により劇場が焼失、二度と再建されることはなく、そのまま廃座となりました。

 


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