大正時代の「持ってる」女 <<築地さんぽ2月号>>

「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」

築地本願寺境内には、この歌を刻んだ石碑があります。詠み人の名は、九条武子。大正時代の日本を代表するスーパーウーマン、いわば「持ってる女」でした。

九条武子の肖像。当時の雑誌のグラビア写真

九条武子の肖像。当時の雑誌のグラビア写真

西本願寺第21代法主・大谷光尊伯爵の次女に生まれた武子は、22歳のときに九条公爵家の子息と結婚。実家も婚家も名門華族という彼女は、快活で魅力的な人柄と、後に「大正三美人」の筆頭に挙げられた美貌と、学問教養に秀でた知性に恵まれていました。佐佐木信綱門下として優れた歌才も発揮し、代表的歌人にまでなります。また、仏教讃歌として今も愛唱される「聖夜」は武子の作詞です。

およそ女性の美点をすべて備えているような彼女を、当時のメディアも放っておかず、多くの雑誌が競って武子のグラビア写真を掲載、彼女は多くの女性の憧れの存在となりました。その一方で「歌好き、ネコ好き、綺麗好き」と言われたほどの世話好き、掃除好き。家事一切も人に任せず、自邸の広大な庭の手入れさえ全部自身でやったそうです。

築地本願寺境内、親鸞聖人像の傍らに武子の歌碑がある

築地本願寺境内、親鸞聖人像の傍らに武子の歌碑がある

しかし、武子の活躍はこれで終わりません。教育、特に当時は軽視されていた女性教育に熱心で、現在の京都女子大を創設。さらに1923年(大正12年)の関東大震災では自身も被災しながら、焼失した築地本願寺の再建や、被災負傷者・震災孤児の救済に尽力しました。そのため武子は私財を投じて、病院(あそか病院)まで設立、「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」と説きました。

その後、震災復興が武子のライフワークとなりましたが、1928年(昭和3年)42歳の若さで亡くなりました。西本願寺では、武子の命日である2月7日を如月忌と呼んで、その人柄と事績をしのんでいます。

 

 

築地さんぽ(本文用)