築地さんぽ

浅野内匠頭屋敷跡 <<築地さんぽ12月号>>

「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭の屋敷跡です。

明石町の聖路加看護大学の敷地内、ちょうど築地川公園に面するあたりに石碑が建っています。築地川公園は、かつてはその名の通り川であり、赤穂浅野家の上屋敷もこの川に面していました。当時、この辺りは鉄砲洲と呼ばれていたようです。

浅野内匠頭屋敷跡に建つ石碑。近くには芥川龍之介出生の地を示す看板もあります

浅野内匠頭屋敷跡に建つ石碑。近くには芥川龍之介出生の地を示す看板もあります

浅野内匠頭長矩は、寛文7年(1667年)にこの屋敷で生まれました。それから34年後に、江戸城中松之廊下で吉良上野介に斬り付けることになります。内匠頭は即日切腹、浅野家は御家断絶となり、この上屋敷も没収され無主の地となりました。

浅野内匠頭長矩(1667~1701)

浅野内匠頭長矩(1667~1701)

翌年の暮れ、四十七士は本所(現・墨田区両国近辺)の吉良邸に討ち入った後、この上屋敷跡の前を通って、高輪の泉岳寺まで引き揚げました。どんな思いでこの場所を通ったのでしょうか。

なお、浅野内匠頭が生まれた225年後の明治25年(1892年)には、芥川龍之介がこの地で出生しています。母は龍之介の生後すぐに亡くなり、彼は母の実家・芥川家に引き取られましたが、その芥川家が、本所・吉良邸跡の近所にあったのは、奇縁と言うほかありません。

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勝鬨橋(重要文化財) <<築地さんぽ11月号>>

隅田川には、歴史の古い橋が多いのですが、勝鬨(かちどき)橋が出来たのは、そんなに古い話ではなく、1940年(昭和15年)6月です。

隅田川に架かる勝鬨橋。2007年には国の重要文化財に指定された

隅田川に架かる勝鬨橋。2007年には国の重要文化財に指定された

それ以前は、築地と月島の往復は渡し舟だけで、1905年(明治38年)には日露戦争の勝利を記念して、特に「勝鬨の渡し」が設置されました。勝鬨橋の名称はそれを引き継いだものです。

対岸の月島には石川島造船所などの大工場が多く、渡し舟では往来に不便なため架橋は早くから望まれていました。しかし、当時は隅田川を航行する大型船舶も非常に多く、橋を架けるには大規模な高架橋が必要になり、予算的にも技術的にも困難でした。

橋の名前の由来になった「勝鬨の渡し」跡に立つ石碑。実際には勝鬨橋の150メートルほど下流にあった

橋の名前の由来になった「勝鬨の渡し」跡に立つ石碑。実際には勝鬨橋の150メートルほど下流にあった

その課題を一気に解決したのが、大型船舶が航行するときだけ橋の中央部が跳ね上がって開くという、独特の跳開式可動橋案でした。完成当時は1日に5回、それぞれ20分程度開いて大型船を通していました。

橋の中央部には、開閉の継ぎ目部分が残る

橋の中央部には、開閉の継ぎ目部分が残る

やがて、自動車の普及とともに橋の交通量が増大する一方で、隅田川の大型船は航行量が減り、しだいに橋が開く回数が減っていきました。船舶航行のために橋が開いたのは1967年(昭和42年)が最後です。

その3年後には開閉試験も終了し、その後、橋は一度も開くことのないまま、11月29日で45年を迎えます。しかし、2006年に東京都の委託を受けて行われた土木学会の調査によると、勝鬨橋の開閉は、今でも技術的に問題はないとのことです。  

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歌舞伎の殿堂 <<築地さんぽ10月号>>

歌舞伎の殿堂といえば、東銀座の歌舞伎座ですが、関東大震災前までは新富町にも歌舞伎の中心的な劇場がありました。それが新富座です。

江戸時代、庶民の娯楽だった歌舞伎は、江戸四座といわれる芝居小屋でのみ興行が許されていました。中村座・市村座・森田(守田)座・山村座の四座で、後に山村座が取り潰されたため、最終的に江戸三座となりました。

1881年(明治14年)に3代目歌川広重が描いた「東京名所之内・第一の劇場新富座」

1881年(明治14年)に3代目歌川広重が描いた「東京名所之内・第一の劇場新富座」

このうち森田座は、維新後の1872年(明治5年)に新富町の地に移り、3年後には新富座と改称しました。その後すぐに火災で焼失したのを機に、1878年(明治11年)、新富座は西洋式の大劇場に生まれ変わります。

ガス灯による照明で夜間上演が可能という画期的な近代劇場は日本初の試み、そして日本最大規模でした。新富座専属の役者には、9代目団十郎・5代目菊五郎・初代左団次の3名優がおり「団菊左時代」といわれる歌舞伎の黄金時代を現出しました。

かつて新富座のあった場所には、今は京橋税務署が建つ

かつて新富座のあった場所には、今は京橋税務署が建つ

その後、近代日本にふさわしい歌舞伎をつくろうという運動の一環として、1889年(明治22年)に歌舞伎座が開業します。新富座は、これに対抗するため市村座や中村座などと謀って、歌舞伎座排除に動きます。「団菊左」をはじめ人気役者の出演予定を5年先まで埋め、歌舞伎座には出られないようにしたのです。背に腹は代えられぬ歌舞伎座は仕方なしに莫大な見舞金を新富座などに支払って、やっと歌舞伎を上演できるようになりました。しかし、「団菊左」の引退とともに新富座は衰えていき、明治の末年ごろには歌舞伎座、市村座とともに関西の松竹に買収されました。さらに、関東大震災により劇場が焼失、二度と再建されることはなく、そのまま廃座となりました。

 


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築地は学問の街? <<築地さんぽ9月号>>

築地には、やたらと大学(学校法人)の発祥地があります。「魚河岸の町」として知られる今の姿からは想像がつきません。

慶応義塾発祥の記念碑。側には解体新書翻訳 を記念する蘭学事始の碑も建つ

慶応義塾発祥の記念碑。側には解体新書翻訳
を記念する蘭学事始の碑も建つ

築地の魚河岸は仮開設が1923年(大正12年)、正式開設が1935年(昭和10年)ですが、それ以前の築地は、江戸時代から続く本願寺と武家屋敷の町、そしてもうひとつの顔が、明治初年に出来た外国人居留地の街でした。

明治学院と青山学院の記念碑は、聖路加ガーデンの並びに建っている

明治学院と青山学院の記念碑は、聖路加ガーデンの並びに建っている

外国人居留地は、安政五カ国条約により国内に設けられることになった開港・開市場で、貿易商社が多数あった横浜が有名です。築地の居留地には主にキリスト教の教会堂が集まり、宣教師も居住したため、それに伴いミッションスクールが多くつくられました。立教や青山学院など多くのキリスト教系学校が築地に起源を持つのはこのためです。

明治学院の記念碑

明治学院の記念碑

また、現在の明石町には豊前中津藩の中屋敷がありました。藩医の前野良沢は江戸後期にこの地で「解体新書」の翻訳を完成させたため、蘭学起源の地ともされています。さらに後年、藩士の福沢諭吉が1858年(安政5年)に屋敷内で開いた蘭学塾は、後に慶応義塾となりました。少し毛色の変わったところでは工学院大学。創立当初は工手学校といい、産業の近代化をひた走る明治日本の「現場」を支える職人の養成を目的とする職業学校でした。

◇築地発祥の主な学校法人(暦年は創立年)
慶応義塾 1858年(安政5年)
女子学院 1870年(明治3年)
立教学院 1874年(明治7年)
明治学院 1877年(明治10年)※
青山学院 1877年(明治10年)※
工学院大学 1887年(明治20年)
女子聖学院 1905年(明治38年)

※明治学院と青山学院は複数の発祥地・創立年があるため、築地における創立年を記した。

 


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聖路加国際病院 <<築地さんぽ8月号>>

聖路加国際病院は、9つの診療センターと30の診療科・部門、産科クリニック19床を含む539床のベッドを有し、約320人の医師と700人の看護師が働く日本でも屈指の大規模総合病院です。

「野戦病院」設計の新病棟。手前はトイスラー記念館、奥は聖路加タワー

「野戦病院」設計の新病棟。手前はトイスラー記念館、奥は聖路加タワー

設立は1902年(明治35年)、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーによって開かれました。築地・外国人居留地には明治初期から小さな診療所がありましたが、それをトイスラーが買い取って開院しました。

病院名の「聖路加」は「ルカによる福音書」の著者・聖人ルカに由来します。ルカの職業は医者と伝えられていることから、キリスト教圏では病院名に冠せられることが多いようです。したがって「聖路加」の正しい読み方は、今でも「せいるか」です。

中央の十字架尖塔が特徴的な旧病棟は、都の「歴史的建造物」

中央の十字架尖塔が特徴的な旧病棟は、都の「歴史的建造物」

1923年(大正12年)の関東大震災で病棟が倒壊しましたが、皇室などからの寄付により再建しました(旧病棟)。旧病棟のうち、チャペルなどを含む主要部分は修復を施されながら今も現役で活躍中です。

また、1992年に竣工した新病棟は「野戦病院」設計で有名です。院内の壁面すべてに酸素供給口があり、大規模災害時などに多数の患者を一度に受け入れて建物内の至る所で救急救命処置を施せるようになっているのです。

創設者のトイスラーを顕彰する石碑

創設者のトイスラーを顕彰する石碑

この着想は竣工3年後、現実に生かされました。朝の通勤ラッシュの築地駅をも襲った地下鉄サリン事件。この病院が事件で最多の被害者を一度に受け入れられたのも、この設計のおかげだったのです。

 

 

 

 

 

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